「さみしい」に潜むものは何だろう?

随分ご無沙汰してしまい申し訳ございません

前回に引き続き「さみしい」感情について


今回は、少し分かりにくい表現が有るかもしれません

詳細にこだわらず、大体の感覚で読んでいただけると嬉しいです。


人間の悩みは、一つの単体で出来上がっているのではなく

様々な要因が複雑に重なり合っています。

「さみしい」と言う言葉にも、漢字は「淋しい」「寂しい」があります。

「さみしい」の形態も種類も、千差万別です。


けれど、多くの人は捉えた「さみしい」と言う感情を

目の前の上手く行かない物事や、世間の価値観を結び付け「さみしい」の原因にしてしまいます。


例えば、下記の写真を見て何を感じますか?

暗い手前の景色に対比した、向こう岸のキラキラした海面に浮かぶ船

これを希望的に受け取る人もいるでしょう

反対に、何か言葉で言いがたいもの悲しさを感じる人もいるでしょう。


その違いは一体何でしょうか?

大きく起因するのは、見た人の精神的環境や、植え付けられた価値観です。


どちらが良いと言うわけではありません、自分が感じたものを大切にしていただきたいのです。

何故、この様な事を話すか、それは誰かの常識等を取り外した

素の心の自分を理解して欲しいのです。


或る冬の吹雪く日に、道路工事の旗を振っている人を見かけました

雪が目に入りそうになり、寒さで赤くかじかんだ顔を歪め、必死に旗を振っていました。


私はその晩、食事中にその姿を思い浮かべ、急に涙が出ました

あの過酷な状況下で、一日中立ち旗を振る仕事の辛さを、想像出来たからでした。


しかし、娘の反応は違っていました

「もし、可哀想だと思うなら、それは旗を振っている人に失礼だ。」

そう言う考え方もあります。


しかし、ここで注目したいのが、可哀想=失礼の方程式です。

可哀想と思うことが、本当に失礼な事でしょうか

可愛想=自分より下に見ていると決めつけているからですが

私はとてもシンプルに、自分に置き換え、その苦労に胸が痛んだのです。


誰かが作り出した説が常識とされた時から、人はその説を何の疑いも持たなくなる。

これは見方を変えれば、「プロパガンダ」に繋がる危険性があります。


一人暮らしの人を「さみしい」と決めつけたり

友達の少ない自分を「さみしい」と自責したり

結婚していない人.子供のいない人を「できない」と決めつけたり

世の中にはこの「決めつけ」で、多くの人が感じなくて良い

「さみしい」を感じる場合が有るのではないでしょうか。


たとえば友達の多さを、ランチのお店の情報を、いかに充実した生活かを

PRする人が居ます。

そう言う人達は決まって「忙しい」を口癖の様に言います。

その行動は、自分が幸福で恵まれた人間である事を、他人から見られる事を目的にしています。

学生の、クラスのカースト制度によく似ています。

カーストの低い自分、暇で価値の無い自分、そんな自分が許せないから

形だけでも体裁を繕おうとします。


けれど、真の幸せは、どんなに他人から「あなたは幸せだ」と言われた所で

自身が幸せと感じなければ、何の意味も持たないのです。

現在、注目されているアルフレッド.アドラーの「個人心理学」では

「普通である事の勇気」を説いています。

誰かに優れた人間に見られなくても良い、と言う事です。


誰かが作った、世の中にはびこるやっかいな「常識」に惑わされるより

可能性云々を取り去り、自身の心が満たされるもの、幸福は何かを想像してみて下さい。

それが本来、あなたが進むべき道だったはずです。

現実と大きく離れていても

その世界に触れることで、きっとその人だけの真実を知るでしょう。


それこそがやがて、自分軸になって行くはずです。

誰に犯される事のない、自分軸を持ち、自身を見つめた時に

あなたを苦しめていた「さみしさ」が色あせて行くかもしれません。


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